「特別」なら許されるマイノリティー

2026/03/20

朝日新聞 2026年2月17日

〈寄稿〉近藤銀河さん(アーティスト)

高市早苗首相のSNSの投稿は衝撃的だった。彼女の夫のために公邸がバリアフリーに改装された、という報道を受け、それを否定し「仮に貴重な税金を使って改修工事をする必要があるのであれば、私たちは公邸に引っ越しません」としていた。健常者に対して気を使い、マイノリティーが堂々と主張できるはずの(けれど批判を浴びる)権利を引っ込める姿勢は、私の日常で選びたくないのに繰り返し浮かび上がってくる選択肢だった。それを政治のトップが口にしている。

外出に車いすを使っているとたくさんの善意に出会うけれど、時には善意を断らないと自分を守れないことがある。よく遭遇する例が、長い階段で「背負ったり車いすを運んだりできるよ!」という申し出だ。運んでもらったり、背負ってもらったりすることは強い身体的労作を伴う。車いすだけ運んでもらって、自分は時間をかけて這うように登らないといけないこともある。そうした善意を受け入れた後、私は人知れず数日、時には1週間ほど倒れこむ。そしていつも悩む。取れば自分が痛みを背負うことになる、差し伸べられた 優しい手をどうすればいいのかと。悩むのは怖いからでもある。断ればその人はもう自分を相手にしなくなるのではないか、社会からパージされていくのではないか、と。

あるいは、自分が行かないだろう会議が階段を上らないと到達できない場所で開かれるのを知った時。出席しないのだから何も言わなければいいのかもしれない。私の権利にも傷にも蓋をして無視しよう。でもそれでは主催者たちの意識は変わらない。あとに続く人がまた苦労する。どうしよう。

マイノリティーはこうした場面に何度も直面し、何度も悩む。そして、社会はこうした悩みに冷たい。高市氏の投稿はそれを象徴し、社会のあり方を思い出させてくれる。強く支持される政治家が示すマイノリティーの姿は、マイノリティー性以外では徹底的に規範に従順な姿だ。それは明白なメッセージとなる。「あの人は○○だけど、他の○○とは違い、特別だからいいんだよ」と言われるような存在。マイノリティーはそれを目指して努力せよ、と。

私もそうした声に日々、従おうとしてしまい、そんな自分に愕然とする。なぜそんなに健常者と同じように振る舞おうとしているのか。マジョリティーにとってあるべき姿を守るマイノリティーになるのか、そこから動き出してさらに社会の規定から外れた「マイノリティーの中のマイノリティー」になるのか。私はいつも悩んでいる。健常者が想像する障害者増の内側に踏みとどまる限り、私は迷惑をかけないから許される存在としてのみ許容される。「何も気にしなくていいです。大丈夫です」と言い続ける限り合理的な調整はなされない。後に続く人もまた苦しむことになる。だから、いつも吐きそうになりながら少しだけの勇気を出して、物申したり出来ないと断ったりする。頑張らないで社会に存在するために頑張る。なんてむごい矛盾だろう。でも特別でなくても生きられるために今はそうするしかないと歯を食いしばる。

荒れ野のような選挙が終わった。「特別な」マイノリティーは圧倒的な支持を受け、マイノリティーの葛藤に行き場はなく、いやそもそも選挙の枠組みの中にさえ入っていなかった。同性婚を否定し、発達障害の存在を否定し、外国人を排斥する政治家たちに、無視され、時に実態とかけ離れた戦いに引きずり出され、見せ物にされただけだった。それは政治的争点でさえない。こうやって支持された政治家によって、法律が作られ、政策が進められてゆく。私は葛藤しながら、悩みながら、つらいけど勇気を出して「マイノリティーの中のマイノリティー」になって、より一層はみ出していくのだ。