奪われた「共生」の言葉 障害者なき対話に市川沙央さんは思う

2026/01/11

朝日新聞 2025年9月12日

寄稿(要約)

「対話でさぐる 共生の未来」

朝日新聞主催の一大イベント「朝日地球会議2024」のテーマだ。イベント内容を公式サイトでチェックし、とても驚いた。(誰ひとり取り残さず、すべての人が暮らしやすい持続可能な地球と社会について、みなさまとともに考えていく「朝日地球会議」)。輝かしい理念に続いて紹介される76人の登壇者は、すべて元気そうな人ばかり。障害当事者や家族あるいは支援者の立場の人すら、一人もいないのだ。20以上のプログラムのテーマにも、障害者に関するものは一つもないようだ。参加者のアクセシビリティーはどうなっているのか事務局に問い合わせると、各セッションに手話通訳も字幕も用意されていないとの返事。健常な人だけ76人も集めて、聴衆に聞こえや認知のアクセシビリティを保障する意思も感じられない「対話でさぐる 共生の未来」。朝日新聞は、いったい誰と、何と共生するつもりなんだろう。

「共生」は様々な文脈で使われる言葉ではあるが、「共生社会」を検索すればわかるように、わが国では第一義に障害者の包摂を考えるための言葉だったはずだ。「相模原障害者施設殺傷事件」が起き、以後わが国で「共生」の語を使うことの意味と義務について、「朝日地球会議2024」の企画立案者と承認者の頭には一片も浮かぶことがなかったというなら、残念な思いを通り越して、何かもっと極めて深刻な問題が〈私〉とあなたがたの間に横たわっているのではないかという疑いが湧く。

アクセシビリティについて、同時期に東京国際フォーラムで行われていた東京都主催の「だれもが文化でつながる国際会議」では、手話通訳・同時字幕、パンフレットのテキストデータ提供があるだけでなく、それらの情報が公式サイトのトップに明記されている。ただでさえ障害者はどこへ行こうとしても下調べと事前連絡を課されている。そもそもドアが開いているかどうかわからない場所に行ってみようとは思わないだろう。クローズドな健常者ファーストの場を作っておいて、あたかもサポートのニーズが存在しないように見せかける。それのどこが「対話でさぐる 共生の未来」なのか。

私は障害者への配慮不足を批判しているのではない。「共生」という語をめぐる思考の不徹底を問うているのだ。

事務局から、セッションの内容は後日新聞紙面や朝日デジタルで紹介予定と聞いていたので、抄録記事を読んだ。朝日新聞の現状認識に対して、なお疑問を深めざるを得なかった。朝日新聞が力を入れている「8がけ社会」…社会を支える現役世代が今の8割になり、人手不足が深刻化する社会危機。これに関連して設定された議題はどれも、今障害者が経験させられている現実とあまりにも乖離している。朝日新聞の関心は、生産力とサービスが縮小して服装や嗜好品の選択肢が減ってしまう未来を受け入れ楽しめるか、ということにあるらしい。在宅の寝たきりの人がもう十年以上も前から、訪問入浴のスタッフが集まらず今週はお風呂に入れるかどうかわからない、という綱渡りの生活をしているのに?

マイノリティの訴える困難や課題が、マジョリティの関心事にいつの間にかすり替えられ、小さく弱い声がかき消されてしまうのは、非常によくあることで、マイノリティ運動の簒奪などとも呼ばれるが、よりによって「共生」という言葉を簒奪するとは。障害者を対話から排除し、人手不足が及ぼす生活の不安、生存権すらおぼつかないかもしれない未来への危機感を、健常者の感覚で嗜好品の選択肢の問題に矮小化してしまうとは、あまりにも恥ずべき簒奪だと思いませんか。

持続可能な地球と社会――SDGs。気候変動、自然災害、環境破壊、パンデミック、AI、戦争、食糧危機、少子高齢化、大きな必然的テーマだろう。しかし、これら情勢の変化によって先にネガティブな影響を受けるのは弱者、特に身体的弱者だ。繰り返す、稀にみる障害者憎悪犯罪「相模原障害者施設殺傷事件」、それを記憶していたら「共生」の語を身体的弱者への想像力なしに、「朝日地球会議2024」のセッション構成はあり得なかったのではないか?あるいはもっと深刻な認識の問題--【そうは言っても、われわれの「一般社会」とヤマユリエンみたいな障害者の世界はぜんぜん別のことだからなあ…】--こうした心理の断絶が、私とあなた方の間には横たわっているのかもしれない。これが、本寄稿で私があなた方に伝えたかったことだ。

「共生」の語をもってしても乗り越えられない断絶。

特にコロナ禍の渦中で障害者たちに降りかかった苦難。医療の受けづらさ、医療者による差別、面会制限、世間の無関心、正常化する社会から置き去りにされていくこと。コロナ禍を境に、もともとあった断絶はもっと露骨に、あからさまになりながら深まったと感じる人たちがいる。社会はすでに、私たちを切り捨てることを選んで、そうしても痛まない心をコロナ禍という非常時の経験から手に入れたのではないか、と。今までそういうふうに考えていなかった私も、「朝日新聞地球会議2024」の構成を見て、「ああ…そうなのかもしれない」と初めて思った。日本に身体障害者は人口の3.5%程度いるとされ、76人なら2、3人は交ざらなければ不自然になる。にもかかわらず、あのクオリティペーパー朝日新聞の考える「共生」からも障害者は排除されるのだから。

つまり「8がけ社会」にも順応して生き残れる人間だけが生き残ればいいという、これは宣言なのだろう、と思った。365日ほとんど家の中に閉じこもっている私のところにだって障害者の苦境の情報は届くのだ。足で稼ぐ新聞記者の目と耳にもっと多くの情報が入っていないわけがない。とすれば、情報と関心事の取捨選択に何らかのバイアスがあるのだろう。自分と同じ属性、似た経験、共感できる課題、聞きやすい声、話しやすい人。すべてその逆にある障害者はいつものように、いないことにされ、「共生」の輪からも消された。私にはもう、未来に期待する気力が残っていない。