

障害と逸失利益 「障壁」のない社会に
朝日新聞(社説) 2025年1月24日
「聴覚障害者だからどうせ無理だろうというのは偏見です」「すべての障害者の方が生きやすい社会になってほしい」聴覚に障害があり、交通事故で亡くなった女児の両親の言葉を、しっかりと受け止めたい。
両親が加害者側に損害賠償を求めた裁判で、大阪高裁は逸失利益について、障害がない人と同額と判断した。算定は、すでに働いていた人なら実際に得ていた収入が手掛かりになるが、子どもだとそうはいかない。高裁は、女児に学年相応の言語知識と学力があり、コミュニケーション能力も高かったと認定。法整備や就労環境の変化を地裁より強く見通した。
注目されるのは、未成年者の逸失利益算定の際、全労働者平均から減額が許されるケースを限定し、減額を例外とする判断基準を示したことだ。従来の発想を根本から転換したと言える。障害は多岐にわたり、程度も様々だ。すべての障害者に直ちに当てはまるわけではないが、判決は平均賃金の適用が当たり前になる社会にしていかねばならないとのメッセージと受け止めるべきだろう。
今日の障害者行政への転換となったのは、政府が2007年に署名した障害者権利条約だ。2011年に改正された障害者基本法は、障害者を「社会的障壁により継続的に生活に相当な制限を受ける人」と定義。社会的障壁とは「事物や制度、慣行、観念その他一切のもの」とし、それを取り除くために「必要かつ合理的な配慮」を求めた。続く障害者差別解消法の制定や障害者雇用促進法の改正でも同様の規定が盛り込まれた。一連の法整備を土台に、障害者自身の活躍とともに支えた人たちの実践が積み重ねられてきたことを忘れてなならない。
そうした営みを経て示された今回の判決について「一つの到達点」との評価もあるが、司法や法学者が果たすべき役割はなお小さくない。金銭的な評価として便宜的に使われてきた逸失利益という考え方自体、命の価値は等しいという理念にかなうのか、その問いに応えていくことも課題の一つだろう。