社説 着床前検査の拡大 滑りやすい坂道くだるには

2024/10/03

朝日新聞 2024年9月11日

着床前検査の審査基準が緩和された後、初めての結果が先月公表された。日本産科婦人科学会によると、昨年審査した72件中、承認は58件で、過去最多であった。

医学の進歩で、病気の原因となる遺伝子が多数特定され、検査で調べることもできる。人間の遺伝的な「質」への介入が可能となりつつある現在、生殖補助医療の規制と将来について考えてみたい。

緩和された基準
着床前検査は、日本では「重篤な遺伝疾患」を対象に同学会が一件一件審査。成人前に日常生活が強く損なわれたり亡くなったりするかを「重篤」の基準にしてきた。2022年に緩和された新しい基準では、「原則」の一言が加わり、例外を認める余地を残した。今回承認された中にも、成人以降の発症を例外として認めたものがあり、かつて不承認だった目のがんも承認された。海外では成人後に発症する遺伝性の乳がんなども対象になっており、今後対象となる病気が拡大することも予想される。

他方、重い遺伝性の病気や障害を持ちつつ社会生活を送る人たちがいる。受精卵の選択は、重い病気や障害のある子どもの出生を否定的にとらえる風潮につながりかねない。日本では戦後、旧優生保護法の下、病気や障害を理由に強制不妊手術が行われた負の歴史を持つ。人間を望ましい「質」と望ましくない「質」に分け、人為的に介入することに優生学の核心はある。国家による強制か、親の自発的選択によるものかは、必ずしも対立関係にあるわけではない。

公的機関が必要だ
何を重篤と考えるかは人それぞれで、明確な一線を引くのは難しい。審査では幅広い分野の専門家や患者団体にも意見を聞いている。しかし、一学会が人の価値観や生命倫理にかかわる重い決断を担うことはもはや限界にきている。そもそも日本には生殖補助医療に関する法規制がない。

4年前から超党派の国会議員が生殖補助医療を規制する法案の検討を続けている。だが、現在の案は、第三者の精子や卵子で生まれた子の「出自を知る権利」の保証が中心で、着床前検査は含まれない。朝日新聞の社説は生殖医療全体を統括する組織の必要性を訴えてきた。学会も公的機関設立を求めている。日本学術会議も昨年、着床前検査「生殖医療と生命倫理の検討を所管する公の機関の設置が必要」と述べている。アカデミアからの真摯な訴えを、政府や国会はいつまで放置し続けるつもりなのか。

なし崩しに広がる恐れ
着床前検査の近未来にも少し思いをめぐらせてみたい。

2022年の統計では、日本の子どもの10人に一人は体外受精で生まれている。病気を回避する目的で体外受精を選ぶところが今回の特徴だ。

2012年に発表された新しいゲノム編集の手法を使えば、受精卵の遺伝子操作も不可能ではない。2018年に中国の研究者がこの方法で子どもを誕生させたことは記憶に新しい。着床前検査は、いずれ親が子どもの才能や資質を選ぶ技術になる可能性を秘める。最初は限定的に認めたつもりでも、なし崩し的に広がってゆく「滑りやすい坂道」の典型だ。道をすでにくだり始めているのかもしれない。

であればこそ、階段を作って、慎重に下りる。想定外のことや社会に不都合が生じればいったん立ち止まり、引き返すことのできる勇気と思慮深さが求められる。そのためにも公的機関の設置を急がねばならない。