「コーダ」の私が思うこと

2022/06/02

朝日新聞 2022年6月1日

耳の聞こえない親がいる、聞こえる子ども「コーダ」(Children of Deaf Adults)。コーダを描いた映画がアカデミー賞作品賞などに輝き、ドラマやドキュメンタリー映画の公開も相次ぐ。親の「通訳」を担い、差別や親子関係に悩み、孤独にも直面する当事者の思いとは。

親との間に「言葉の壁」/偏見に疲れ 両親がろう者でコーダの体験を伝えるライター・五十嵐大さん(38)

映画「コーダ あいのうた」(公開中)を見て、気持ちがわかりすぎて、苦しかった。主人公が一生懸命親の通訳をして、学校で親のことを笑われて偏見を持たれたり、進学で家を出るか残って支えるべきか葛藤したり…エンタメ作品としてある程度誇張されていることを差し引いても、葛藤や差別など身に覚えがあった。

子どもの頃、「障害者の子はしつけもされない」と言う人がいた。近所の花壇が荒らされた時、「あんたが犯人でしょ」と言われた。「お母さんが障害者だからいじめるのか」と大泣きした。母も来て「私の耳が聞こえないから息子をいじめるんですか」と初めて反論した。大人の中にも公然と偏見や差別を見せる人もいた。

僕の場合、聞こえる自分と聞こえない両親の間に「言葉の壁」はあった。手話は両親を見て覚えたが、つたないまま。細かい気持ちのニュアンスを手話で伝えるのは難しかったし、筆談ももどかしかった。わかり合えないこともあった。

映画の主人公が「私はただの通訳。生まれたときからずっとしていて、もう疲れた」と言うセリフ、「疲れた」に共感した。通訳より、障害のある親がいることして世間から偏見をぶつけられることに疲れた。親は悪くないのに、周囲の目が気になった。上京後は周りが家族のことを知らないので楽だったが、実家に帰ると家族は待っていてくれた。不安をこぼすと母は手話で「大丈夫」と言ってくれる。愛されていると気付いた。両親を傷つけてきた罪滅ぼしにできることはなにか考え、今ライターとしてコーダ、ろう者のことを伝えている。社会を変えるのは難しいがきっかけになれたらと。

祖父母が亡くなり、実家には両親だけ。ライターをやめ、地元で就職するか迷っていると告げると、「心配いらない。戻ってこなくても大丈夫だから」と言ってくれた。両親の強さを知った。ろう者だからといって弱者ではない、両親は自立していると改めて思った。