「命の価値」問う裁判 亡き愛娘の補聴器に誓う両親の思い

2021/09/22

毎日新聞 2021年9月20日

 小学5年生だった娘は補聴器をつけて懸命に生きていた。交通事故で娘を失った両親が、事故を起こした運転手や当時の勤務先を相手に民事裁判を続けている。「障害を理由に差別しないでほしい」。問われているのは命の価値だ。

 7月7日、豊中市の井出努さん(48)と妻さつ美さんは9箱に及ぶ段ボール箱を大阪地裁に運び込んでいた。各地から寄せられた10万筆を超える署名だ。努さんは「この署名はただの紙切れじゃない。同じ障害を持つ人たちの悔しい思いがたくさん込められている」と訴えた。

 2018年2月1日は普段と変わらない朝だった。しかしわずか半日後、泣き叫ぶ妻の電話で大阪市内の病院に駆けつけた努さんの目に飛び込んできたのは、変わり果てた娘・安優香さんの姿だった。下校途中に信号待ちをしていた安優香さんら5人は暴走して歩道に突っ込んだ重機にはねられた。運転手の男性(38)は持病を隠して運転免許を更新し、事故当時は意識を失っていたことが判明。懲役7年の実刑判決を受け、今も受刑中だ。安優香さんの両親は刑事裁判後の2020年1月、運転手と当時勤務していた建設会社に計6100万円の損害賠償を求めて大阪地裁に提訴した。

 両親が突きつけられたのは、障害者に対する認識のずれと、健常者との「格差」だった。安優香さんは生まれるつき難聴だったが、補聴器をつければ生活に支障はなかった。両親は訴訟で、年齢相応の学力もあった安優香さんは大学に進学し、将来民間企業に就職していた可能性が高いと主張。健常者と同じように働けたとして、賠償額のうち将来得られたはずの収入「逸失利益」を全労働者の平均賃金で算出し、約3500万円に設定している。

 逸失利益は「命の値段」とも呼ばれ、損害賠償額を導き出す柱のひとつ。障害者を取り巻く就労環境は法整備などで改善しつつあるが、裁判では健常者にくらべて低く提示されることが少なくない。

 被告側は「聴覚障害者は健聴者とくらべて思考力や言語力の習得が困難で、健聴者と同等の労働価値を生み出すことはできない」と反論。聴覚障害者の平均賃金(全労働者の平均賃金の約6割に相当)を基礎に算出すべきだと訴えている。安優香さんには重度の聴覚障害があったとして、当初は一般女性の4割とさらに厳しい額を提示していた。事故の過失は認めている。

 支援する公益社団法人「大阪聴覚障害者協会」の大竹浩司会長(67)は「逸失利益はいまだに残る優生思想のひとつだ。裁判所に障害者の切実な声を届けたい」と訴える。協会が署名を募ると、1ヵ月あまりで10万1685筆の賛同が寄せられた。地裁に提出後も追加で署名活動を続けている。

 努さんは「私たちは娘の11年間の努力を、生きてきた証しを正当に評価してほしい」と求める。裁判は長期化する可能性もあるが、今は安優香さんと同じ障害を持つ人たちの支えがある。そして「お守り」、安優香さんの補聴器をいつもポケットにしのばせ、「パパ、頑張るね」と語りかけている。

 障害者の逸失利益に対する司法判断は、障害者雇用の推進や人権意識の高まりを背景に改善しつつあるが、健常者と同等に算出されたケースはほとんどない。専門家は「障害者という枠組みにとらわれず、個々の生活状況に応じて柔軟に判断すべきだ」と訴える。就職実績のない障害児は労働能力が低いと見なされやすい。豊中市で2015年、障害児施設からいなくなった重度の知的障害のある男児(当時6歳)が死亡した事故では、施設側は障害年金をふまえた逸失利益を主張したが、大阪地裁は全労働者の平均賃金の8割を基礎に算出する案を示し、和解が成立した。2019年の東京地裁判決は、施設から行方不明になって亡くなった知的障害の少年(当時15歳)の逸失利益について「障害者雇用政策は大きな転換期を迎え、知的障害者の就労の可能性を否定するのは相当ではない」と指摘。19歳以下の男女の平均年収から算出する判断が示されたこともある。

 立命館大の吉村良一名誉教授(民法)は「障害があってもなくても平等に暮らせる社会を目指す中、裁判所が率先して差別的な判断を改める姿勢を示すべきではないか」と話す。