多事奏論:健常者という「枠」 記事に出る「やのに感」の怖さ

2021/09/22

2021年9月15日

 東京パラリンピックが開かれていたのがうそのように、世間やメディアの関心は他に移っている。英でパラリンピックを研究するイアン・ブリテン助教は「史上最も成功した、と言われるロンドン大会後も同じでした」と語る。大会1年後の調査では、81%が障害者への態度は変わらず、22%はかえって悪くなったと答えた。ブリテンさんは「なぜ彼らばかり優遇されるのか」という世論が影響したと分析する。そして「障害者を『健康でない人』にしてしまう日本の『健常者』という言葉も分断を広げないでしょうか」と続けた。

 そもそも「健常者」とはなにか。NPO法人スウィング(京都)の理事長、木ノ戸昌幸さん(44)に話を聞いた。スウィングの定款には、「障害」「健常」といった枠を超え―とある。「健常者って、心身共に常に健やかな人ですよねえ。そもそもそんな人はいないわけで、ほんとうに怖い言葉です」

 「生産性」が求められる社会では効率よくお金を稼げない人は障害者で、「一段劣る人」になってしまう。スウィングでは「社会に働きかけること」すべてが仕事で、お金を稼ぐかどうかで評価せず、自分の仕事を楽しんでいる人が尊敬を集めるという。絵や詩を描く「オレたちひょうげん族」は大事な仕事のひとつだ。作品を「障害者アート」と呼ぶことに木ノ戸さんは異を唱える。障害者やのに頑張っている、という「やのに感」が漂うからだ。確かに「健常者アート」とは言わない。

 「これも『やのに感』でしょうか」、2年前に同僚が書いた朝日新聞の記事を木ノ戸さんに見てもらった。スウィングのQさんとXLさんが京都市営バスの全路線を暗記し行き方を指南している仕事を取材した記事だ。Qさんは「もうちょっと言い方、書き方があるやろうという感じ」、XLさんは「残念やった、悲しかった」と、スウィングの会報誌で吐露していたのだ。障害者という言葉にはネガティブなイメージが伴い、2人は普段自分が障害者であることを忘れているからショックを受けた、と木ノ戸さん。「この記事から透けて見えるのは、障害者の価値を上げたい、障害者も役に立つという思考。でもなぜ価値を上げなあかんのか。障害者であろうがなかろうが、記憶だけでやっているんだからそれで十分記事になる。これが大手メディアの打ち出し方の限界なんだと思った」

 「障害者が××をした」。こういう記事を何本も書いてきた。果たして「やのに感」がなかったと言えるだろうか。木ノ戸さんに突かれ言葉を返せなかった。

 自分は障害者よりも生産性が高いという意識が少しでもあれば、健常者という言葉は傲慢になってしまう。書く記事にも「やのに感」が漂ってしまう。ともすれば、いかに効率的に時間を使うかを優先して考える私が書く記事は、木ノ戸さんが憂慮する価値観を強化してしまったのではないか。その怖さに気付いたところから答えを見つけるしかない。