やまゆり園事件は終わったか  福祉現場や政策 重い責任

2021/04/02

毎日新聞2月11日

 相模原市の「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺された事件から4年半。連載「やまゆり園事件は終わったか?」の取材を通じて「障害者を人として扱っていない」とも言える福祉の実態と、それを容認してきた社会のあり方を感じた。

 事件直後からやまゆり園の支援は福祉関係者の間で問題視されていたが、施設は「密室」で、重度知的障害者は処遇の問題を訴えることが難しく、実態はなかなか見えてこなかった。植松死刑囚がなぜ犯行に及んだか、判決は「職員が利用者を人として扱っていないように感じたことなどから、重度障害者は不幸であり、その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるようになった」と指摘した。

 事件が「やまゆり園=被害者」「福祉=善」語られてきた構図に判決は疑問を投げかけた。神奈川県の調査では20人25件の身体拘束が行われていた。外部識者による検証委は虐待の疑いが極めて強い行為が行われていたと指摘した。取材を進めると、利用者に暴力を振るったり、「税金を使う必要があるのか」と発言したりする職員がいたことも浮かんだ。多くの職員はまじめに働いていただろう。ただ、入所施設は「支援する側」と「される側」の上下関係を生みやすい。トップが高い人権意識を持ち、組織的に支援技術を向上させ続けなければ、虐待につながる不適切な支援に陥る危険性は常にある。

 園を運営する社会福祉法人「かながわ共同会」の別の施設でも問題が発覚した。県の外部評価委員会は共同会のガバナンスを問題視し、理事長ら3幹部は退任することになった。一方でやまゆり園は神奈川県立施設だ。不適切な支援を見逃してきた県の責任も大きい。

 障害者を「隔離」してきた障害福祉政策のあり方も問われる。1964年に開設したやまゆり園の歴史は、日本の障害福祉政策の歴史そのものだ。当時は全国に大型施設が相次いで立てられたが、近年国は施設から地域のグループホームなどへの「地域移行」を進める。しかし、受け皿が不十分で重度者は施設に残されている。やまゆり園で殺傷されたのはこうした人たちだった。

 地域社会の問題も根深い。障害者施設への反対運動も多く、住民の不寛容が障害者を施設へと追いやっていた。支援現場、県、国、人々の心に巣くう偏見…、事件の責任は重層的だ。

 マスコミにも問題がある。やまゆり園の不適切な支援が明らかになってからも、多くの新聞やテレビは本質的な人権問題には目を向けなかった。障害者が殺されればセンセーショナルに報じる一方、健常者と違う暮らしを強いられ、虐待が疑われても無関心だった。私たちの中に「障害者が殺されるのは問題だが、普通の人以下の暮らしをするのは仕方ない」という二重基準がないだろうか。事件が起きたとき、多くの新聞やテレビは「障害者も同じ命」と伝えた。その言葉に忠実でありたい。

 事件を「優生思想」や植松死刑囚の「心の闇」で片付けてはいけない。障害がある人たちを取り巻く問題を一つでも明らかにし、具体的に改善すること。それこそが19人の命に報いることだと思う。