ALS患者嘱託殺人事件が問うもの ㊤・㊥・㊦

2020/11/23

朝日新聞 2020年9月7,8,9日

 難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性に頼まれて殺害したとして医師ら2人が起訴された事件は重い問いを投げかけた。苦しみを抱える人が、死ではなく「生きる」を選べる社会にするには、という視点で考える。

 ㊤ 東京都の酒井ひとみさん(41)は2010年にALSと診断された。生きる意志を支えたのは家族だ。自分が生きることで家族の自由を奪ってしまう、そうさせないために行政と闘い続けた。公的サービス「重度訪問介護」を申請したが、当初は1日約3時間しか認められなかった。夫と母はどんどん疲弊した。「このままでは家族も私も生きられない」と、詳細なケアプランを自分でつくり、何度も役所に通って24時間介護の必要性を訴えた。時間は徐々に増えたが、24時間介護の必要性は認めても「残りは家族が」との行政の考えが壁となった。「介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット」共同代表・藤岡毅弁護士は、行政の厳しい判断の背景には「自分とは無関係のこと」に税金を使うことへの市民の否定的な視線があり、「市民の関心や理解が広がらなければ打破できない」という。弁護士らの支援も受けた酒井さんはようやく昨年、24時間の公的介護が認められた。酒井さんは、病気や障害があってもできることはたくさんあるのに、それに必要な公的支援が十分に受けられない。誰もが当事者になり得る現実を多くの人に知ってほしいと講演やSNSを通じて訴えている。

 生まれつき、筋肉が衰える神経の難病「脊髄性筋萎縮症(SMA)」の海老原宏美さん(43)=東京都は、「『死にたい』は生きたいのにそれがままならない思いの裏返し。被害女性の生きづらさに耳を傾け、支えることはできなかったのか」と感じた。海老原さんは生活のすべてに介助が必要だったが、高校まで普通校へ通った。小学校は母が登下校や授業に付き添った。高校では当初先生に介助を頼んでいたが、同世代にも頼めると気付いた。通りがかりの生徒に移動を手伝ってもらったり、友だちにトイレ介助を頼んだりするようになった。大学では一人暮らしをした。学内にチラシを貼るなどして、ボランティアを自力で探した。そんな海老原さんも「生きるのがしんどいと感じたことは何度もある」。手伝いを頼むと困った顔をされたり、無視されたこともある。それでも「思いを受け止めてくれた家族や友人、関わってきた人から、生きることを否定されたことはなかった」。障害とともに生きること、自ら周囲に働きかけることは海老原さんにとって自然なことだ。周りがそれに応えて、生活が成り立つ。声をかければ快く手を貸してくれる人のほうが多い。経験を通じ、障害のある人の生活を支えようと「自立生活センター東大和」で理事長として相談にのっている。「病気や障害による生きづらさは本人が解決することではない。社会の仕組みや意識が変わっていってほしい」

㊥ ALS患者で参院議員の舩後靖彦さんの思い。41歳の夏発症、1ヵ月後には頭を首で支えられなくなり、舌がもつれてうまくしゃべれなくなった。働き盛りに発症し、いずれ全介助になる自分を受け入れることは大変難しかった。自分の中の「優生思想」が「死にたい」願望にすり替わっていくのかもしれない。発症当時の自分がそうで、2年間死にたいと思い続けた。医師から「他の患者さんのため、ピアサポートをしてほしい」と頼まれた。発症したばかりの人だったが、質問に答えるうちに表情が和らぎ「ありがとうございます」と言ってもらった。稼げなくても、どんな姿になろうとも、生きているだけで価値がある――。それまで味わったことのない喜びだった。「家族に迷惑をかけたくない、動けずに生きるなら死んだほうがましだ」と考えていたが、「僕にもやれることがあり、まだ死ねない」という気持ちがわき上がった。人工呼吸器をつけて生きようと決めた。大切なのは「死にたい」と思ってしまうほど苦しい状況にある人をどう支えるか。「尊厳ある生」のためのサポートや制度、社会資源の充実、人とのリアルな関係を持つことが重要。誰もが、当事者になっても「苦労はあるけど人生は最高」と思える社会に、と願う。

㊦ 岩手保健医療大学長・志水哲郎さん(73)とドリアン助川さんに生きる意味、それを受け入れる社会について聞いた。

清水哲郎さん(岩手保健医療大学長)

「死にたい」という人がいたら、そのまま死なせますか?「身の回りの世話をしてもらうようになったら、死を選ぶのはもっともだ」という価値観の人は、医療・ケアの従事者には不適格だ。厚労省の研究班に参加した縁で、ALS患者の人たちと20年来交流している。人工呼吸器をつけて30年ほど国内外の患者や医療・ケア従事者と交流し、行政を動かした人もいる。難病の人は、現に誰ひとり切り捨てない社会にすることで、社会の役に立っている。「色々できなくなったら、死にたいのは無理ない」と同情的な価値観が支配的になれば、今は元気な人も老いてできなくなれば切り捨てられる不安を抱くだろう。私が保ちたい、難病でも年老いても一緒に社会の仲間として生きていこうという価値観は、不十分ながらも制度として実体化されている。一方で、どんな状況下でも生命を延ばせるだけ延ばすのがよいとは考えていない。人生の最終段階では、無理に生命維持をしない方が心身の負担を和らげ、本人らしい最後を迎えられる場合がある。医療現場では、本人を中心に関係者が合意した選択としてなら、胃ろうや透析、点滴などを差し控えたり終了することがある。今回の事件の場合、「もう少し私たちと話し合ってくれませんか」と本人に語りかけるのが望ましいと考える。

ドリアン助川さん(作家・歌手)

 事件で亡くなった女性が対峙した苦悩と絶望を思うと、「死にたい」との気持ちがわからないわけではない。社会に何らかの働きかけをして生きてこそ人間だという社会の空気が彼女を追い込んでしまったのではないか。社会に役立ちたい、お金を儲けたい、偉い人になりたい、といった価値観を否定はしないが、人の命はそれだけでは語りきれない。重要なのは、関係の中に自分の存在を見いだすこと。人間はこの世を目撃し、感受するものとして存在する、見たり聞いたり、感じたりして関係を持つことに生きる意味はある。仕事も収入もなかった40歳の頃、自分がみじめだった。でも、散歩していたとき、花や鳥の声を美しいと思う自分が、花との関係の中に確かに存在し、それで十分だと思った。人間社会ではダメだけど応援しているよ、と生命に励まされた感覚だった。時には、社会に役立たなければという意識から解き放たれて、星が見えたことが最高、と思えることに価値をおく社会であれば、事件の彼女に気持ちも違っていたかもしれない。「死にたい」「自分は何もできない」、そんな声がよく届く。「感受」の話を伝え、「明日一日生きてみよう」と返すと、「生きてみます」という返事も来る。難病の人に「感受できる世界は減らない」と伝えたら「感じる時間を増やそうと思う」と返ってきた。学生に本を薦めると、「面白いですか?」と聞かれるが、自分で読んでみないとわからない。生きる意味も、自分で生きてみないとわからない。体が動かなくても、生きることをあきらめる必要はない。あなたには、今日話しかける木はありますか?