ニッポン人脈記 漢字の森深く? 「障碍」の文字社会変える

2009/12/03

普段の生活でよく使う漢字を一覧にしたのが常用漢字表だ。国が選び、あくまで使用の目安だが、社会への影響は大きい。
 兵庫県芦屋市に住む豊田徳治郎(74)は、来年秋に向けた常用漢字表の改訂作業を祈る思いで見守っている。
 「障害者ではなく障碍者と書けるようにしてほしい」
 豊田には苦い体験がある。高度成長期を商社マンとして生き、会社も起こした。家は妻に任せ、長男の実(47)とは親子らしい会話もない日々。1995年、実が統合失調症と診断される。でも何もできなかった。
 2000年に仕事を退き、初めて息子と向き合う。「自分は一体何をしてきたのか。贖罪しかない」。ボランティアで障害福祉に取り組むうちに、障害者という表記が気になった。「害のある人と誤解されかねない。名は体を表しますから」
 三十数年前のソウル駐在時代の記憶がよみがえる。日本語がよくできる取引先の部長に尋ねられた。「韓国では障碍者と書く。日本ではなぜ害なのか」。答えられなかった。
 障害も障碍も戦前から妨げの意で使われていた。害には災いの意味があり、害悪など否定的なイメージが強い。なのに障害が使われ、定着した背景には、国の漢字施策がある。
 敗戦の翌46年、膨大な漢字に手を取られていては国の発展は望めないと、使用を制限する当用漢字表(1850字)ができる。だが制限すべきではないという声も強まり、81年の常用漢字表(1945字)では目安とされた。この間、碍は一貫して採用されていない。
 今年1月、改訂作業で最初の試案が公表されると、碍の採用を求める意見が20件も寄せられた。豊田が副理事長のNPO法人「芦屋メンタルサポートセンター」もそのひとつ。精神障害者に代わる言葉として、心的障碍者と提唱している。
 米国では障害者をチャレンジド(challenged)と呼ぶことがある。挑戦すべき試練を神から与えられた人。豊田は日本語でもこんな言葉がほしい。まずは「障碍」からだ。
 豊田は5月、「tokujirouの日記」というブログを始めた。碍について発信している。最初に応えたのが日本語学者の當山日出夫(54)で、「敬意を表します」と伝えてきた。豊田が実のことを書いたのも、目的達成には目立つ覚悟も必要と當山に助言されたから。
 立命館大などで教える當山は、黒板に書く時に赤のチョークは絶対に使わない。色覚異常のある人は見づらいためだ。奈良市内の寺の住職でもある。
 10月に2度目の試案が公表され、碍はやはり採用されなかった。使用頻度が低く、熟語も障碍以外には碍子と融通無碍ぐらいしかない。そんな理由だからだった。當山は言う。
 「障害や人権にかかわる漢字には、使用頻度とは別の判断基準が要ります。その意味で、障碍の碍は政治的な文字なんです」
 當山は豊田と意気投合した。賛同者を募り、精神保健福祉の推進のために行動する「みんなげんき倶楽部」を、11月20日に東京で発足させたばかりだ。
 企業にも変化がある。
 マイクロソフト最高技術責任者の加治佐俊一(50)は昨年初め、自治体では「障がい」と表記している例があることに気づいた。部下で全盲のプログラマーに尋ねてみると、害を使わない動きが出ているという。
 うかつだった。日本版ウィンドウズ製品の開発責任者を長く務め、障害者への配慮を心がけてきたのに。「マイクロソフトではなぜ迷いもなく、害虫の害を使ってきたのか」。社内で議論し、製品や文書の表記で障害を障碍と改めることにした。
 最初の試案には碍の採用を求める意見を送った。10月に発売した基本ソフト「ウィンドウズ7」も障碍を採用している。豊田からのメールでブログを知り、共感する。
 「あの方の主張がきちんと受け入れられたら、社会は優しい方向へ向かう気がします」
 文化審議会国語分科会会長の林史典(68)は、2度目の試案をまとめる時にこう発言していた。「碍は微妙な問題なので、結論はまだ出さない。最終案までさらに考えたい」
 可能性は残っている。(白石明彦)