耕論 強制不妊 70年の空白

2018/08/02

朝日新聞 2018年8月1日

 障害者が子どもを産むという選択肢を奪った強制不妊手術。国会全会一致で生まれた旧優生保護法、社会が容認し、障害者自身も声を上げられなかった背景には何があるのか、3人の意見を紹介。

 DPI女性障害者ネットワーク代表・藤原久美子さんは、30代で視覚障害を持った自身の経験から、障害のある子どもは生まれない方がいいのか、障害のある自分が出産してはいけないのか、自分も子どもも否定されたと感じた。当時はそれが差別に当たるとは気付かなかったが、2011年の実態調査で経験を話し、差別だと気付いた。忘れてならないのは、「本人や子どものためにならない」という論理の元、強制不妊手術が「善意」にすり替えられてきた点だ。誤った善意は差別につながる。障害があっても、それ自体が不幸ではなく、できないとの決めつけから権利を奪うことが障害者を生きづらくするのだ。違憲かどうかの見解を国が示さなかったことは残念。謝罪することで、産むか産まないかの選択の自由を奪うのは誤りだったというメッセージを伝えることになり、その意義は大きいと思う。

 元厚生労働大臣・坂口 力さんは、大臣だった2004年、旧優生保護法に基づく強制不妊手術について「ハンセン病で対応したように解決すべきではないか」との質問を、社民党の福島瑞穂議員から受けた。国に責任があると思い、「考えていきたい」と答弁したが、その後議論が活発になることはなかった。正直、当時は重要な答弁をしたとの認識はなかった。仙台地裁の訴訟で、原告がこの答弁を指摘し、国が救済策を怠ったと主張していると知り、後悔している。責められて当然だ。時代とともに人権意識は変わる。らい予防法が違憲だったとの判決が出たとき、厚労相として判決を受け入れるべきだと当時の小泉首相に伝えた。04年の答弁は、こうした過程をふまえたものだった。国が障害者を強制不妊手術の対象としたのは間違いだったという思いは今も変わらない。明らかに人権侵害だった。

 人権教育と障害学が専門の立命館大学客員協力研究員・松波めぐみさん。最近の杉田水脈衆院議員の発言が話題となっているLGBTの人権ほどに、強制不妊手術は大きなうねりとはなっておらず、まだ距離を置いている人が多い。今でも、手術は「仕方がなかった」という声を聞くことがある。障害者の性や人権について向き合えていないと感じる。障害者の人権という発想が生まれたのは1970年代で、それまでは社会から隠すように排除され、本人の意思は聞かれなくて当然だった。身近に障害者がいない人はなおさら関心がなく、強制手術のことを知らない人も多かっただろう。この無関心が、48年の法制化から70年もの間、被害者に目を向けない空白期間を生んだのだと思う。96年に法律が廃止されたときも、問題を訴えた人は存在したし、国連からの勧告もあったのに、メディアの関心も低調だった。世間の関心の低さに乗じて、人権感覚を磨くことを怠っていたように思える。最近の報道も「産めなかった人の苦痛」を強調し、「誰でも産みたいのが当然」と捉えられているのではないかと気になる。大事なのは、障害の有無にかかわらす誰もがどんな生き方でも選択でき、その選択が尊重される社会であることだ。私たちの無関心が、不妊手術を「仕方がなかった」と容認し、今を生きている障害者の「生」を脅かすことにもつながる、そう想像してほしい。