対談 障害者が狙われて

2017/03/02

朝日新聞 2017年2月25日

 相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件の植松聖容疑者(27)が殺人罪などで起訴された。脳性まひの熊谷晋一郎さん=東京大学准教授とダウン症の娘と暮らしている最首悟さん=和光大学名誉教授が、事件の投げかけたものを語り合った。

 熊谷:衝撃だったのは、植松容疑者が「障害者は生きている価値がない」と言ったという点と、施設で働く介助経験者だったこと。介助者と障害者の間には抜き差しならない関係がある。事件後「暴力が起きるかもしれない」という不安のふたが開いた。

 最首:「生産しない者には価値がない」という容疑者の考え方は、経済主導の国家がはらむ問題に通じるから、驚天動地の事件ではなく、「来たるものが来た」と感じた。これまでの社会は「いかに生産するか」だった。2025年には認知症患者が全国で約700万人になる見込みで、働いて社会を支える人が少なくなり、生産する能力がない人に社会資源を注ぎ続ける余力がなくなる。その時、生産しない人たちを社会はどう扱うのか、問いを突きつけられている。これからの社会が、とてつもなく非人間的なものになるかどうかの分岐点だ。

 熊谷:容疑者は対話すべき相手だと思っている。排除すれば、彼の思想に同化してしまうことになる。

 最首:このまま幽閉したり死刑にしたりしないでほしい。すべて吐き出してほしい。そこに国家とか国民とかいう統合体の抱えているすさまじさ、非人間性が出てくると思う。

 熊谷:彼が、障害者と同じ不安を抱えていなかったか確かめたい。競争に敗れれば次々に不要とされる社会構造の中で、生産能力が劣る人への手厳しさはエスカレートしている。いつ自分が不要になるか、不安にさらされている。少ない椅子を奪い合う社会では、より不要とされる人に悪意や攻撃が向かいやすい。

 最首:現代は存在証明が難しい。弱者はいつ切り捨てられるか分からない、これはとてつもなく不安なことで、解消されないならまぎらわすしかない。そのため、通常は人と交流するが、容疑者は存在証明を国家による勲章に求めたのだろう。日本のために正しいことをした、だから認めてほしい、と。

 熊谷:日本が誇れるのは能力主義を徹底しない、いい加減さだ。70年代の障害者運動は「障害者に対し、社会に合理的配慮がないから能力を発揮できない」という考え方と、「能力のあるなしは関係ない、命そのものに価値がある」という考え方の2本立てだった。80年代以降、米国型の考え方が入ってきて前者に傾倒してきた。重度の障害者を下位におく序列化が起きている。

 最首:本来、日本はもっとあいまいな社会だ。「人間」という言葉は人と人との間の場所、お互いここにいるよ、という意味。主語を略すことが多い日本語を話し、「私」と「あなた」が未分化ではっきりしていないのだ。

熊谷:生活がうまくいったのは契約型と非契約型の介助を組み合わせた時。日常生活は何が起こるか分からない、契約型だと契約以外のことはしてくれないので。

最首:人間は利己的なので、自分が得する感覚が大事。無償の奉仕は信用できないし、続かない。また、愛嬌が人の武器になる。

熊谷:人間は一人では生きていけないのに自立を求められるから苦しい。弱いありのままの姿を承認し合えるような人間関係を保てれば、生きられる。あるがままを持たず仮面をかぶって生きようとする人は、理想から外れた自分を受け入れられず孤立しがち。

最首:「人間」というものを切実に考えることが必要な時代になってきた。「自立して強く」の考えを変え、「弱さの強さ」を自覚する必要がある。

熊谷:孤立し、頼れる先のない人が暴力の加害者にも被害者にもなりやすい。障害の有無を超え、すべての人たちがたくさんの相手に頼れる社会にしていかなければならない。