阪神大震災22年 障害者とともに 1~5

2017/02/10

朝日新聞 2017年1月12日、13日、14日、16日、17日

 阪神大震災から、障害者を取り巻く法や制度は大きく変わったが、「共助」の意識はどうだろうか?震災を体験した、障害がある人々を訪ねた。

1.通いなれた学校へ避難

 2011年3月11日の東北大震災の時に、迷わず通いなれた小学校に避難した伊勢知那子さんは、たんの吸引が必要だ。小学校では停電で吸引器の電池が充電できず、自衛隊のヘリコプターで病院に運ばれた。しかし、けが人でごった返す病院では「治療の必要なし」と判断され、小学校に戻された。母親が医師会や友人を回って充電を頼んで命がつながった。避難生活は2カ月にわたったが、夜中の吸引の音を迷惑がる人はいなかった。地域での共通の話題があり、居心地は悪くなかったと母親は振り返る。

 被災障害者を支援するNPO法人「ゆめ風基金」(大阪市)は、阪神・淡路大震災を機にできた。防災の出前講座を行って「避難所運営シミュレーション」を広めている。06年の障害者自立支援法施行でヘルパーの利用が進み、近所との付き合いはむしろ薄くなったという。地域とのつながりがないと、最寄りの避難所に足が向かず、災害時には命取りになりかねない。昨年施行された障害者差別解消法は、障害者への合理的配慮を行政機関に義務づけたが、同基金の八幡理事は「災害時の避難所でも同じ。障害者を想定すれば、高齢者や乳幼児への配慮ともなり、ひいては災害関連死を減らすことにもつながる」と話す。

2.炊き出し隊、全国に派遣

 熊本地震の余震が続く昨年4月下旬、避難所となった益城町のホテルに西宮市の「すばる福祉会」から駆けつけた知的障害があるメンバーらが、うどんと豚汁計2千食を作った。

 「すばる作業所」は、阪神大震災で作業所4カ所と、障害者20人が住むホーム15軒がほぼ壊滅状態となった。全国の障害者団体から救援、学生ボランティアが来た。震災から数日後に炊き出しを始め、延べ6千人が三十数カ所でカレーや豚汁をふるまった。近所の人の「まさか、すばるから炊き出しを受けることになるとは思わんかったわ」という言葉に、理事長の西定春さん(69)は障害者が地域社会で役割を果たすことの具体像が見えた気がした。

 以来、各地に炊き出し隊を送ってきた。仮設住宅の見守りから始まった、一人暮らし高齢者らへの配食事業も続けている。すばるは作業所を増やし地域に根付いてきた。だが、昨年7月の相模原事件に、「背景には、依然として障害者の教育や生活の場が分けられていることや本人の意思を聞き取ろうとしない社会がある」と西さんの表情は晴れない。「災害時、日常的に地域活動をしている障害者が、助ける側に回った。その潜在的な力を知ってほしい」と話す。

3.自立の家 縁を呼び込む

 障害者施設「はんしん自立の家」(宝塚市)は震災の年、ちょうど開設10年だった。入居者にけがはなかったが、断水しガスも止まった。暖房が切れ、風呂にも入れない状況は、体温調節が難しい障害者には厳しく、肺炎を起こして入院した人もいた。混乱の中、「布団さえ持ってきたら誰でも」と地域の在宅障害者の一時預かりを受け入れた。自宅の補修や片付けの間だけでもと、すぐいっぱいになった。移動入浴車を中庭にとめ、風呂だけの利用も歓迎した。

 奮闘の原動力となったのは全国からの激励の手紙だった。恩返しにと、その年の10月、マラソン銀メダリスト、君原健二さんを招き、一緒に武庫川河川敷を走る会を企画。施設と縁がなかった人も参加した。

 施設内では約20もの講座がボランティアによって開かれている。1人暮らしで、もしもの時のために、と自宅の鍵を預けているボランティアの人もいる。

 施設長の石田英子さん(65)は、「この場所が弱い人が寄り合うサロンになってきた。その中心に最も重い障害を持った人たちがいる」、「ここには希望がある、だから人が集まるのです」とほほ笑む。

4.働く場 くじけず守る

 神戸市長田区の障害者が働くパン屋「くららべーかりー」は開所9カ月で阪神・淡路大震災に遭い、半壊した。「くらら」を営む石倉泰三さん(63)夫婦には脳に障害がある長女の子育てを通して、障害者が働く場の必要性を痛感していた。「ここでやめるわけにはいかない」。焼け野原の中で炊き出しから再起をはかった。ほどなく、復興都市計画に伴う区画整理の対象となったため移転を考えた。近くに土地を見つけたが、近隣住民から「障害者の作業所ができると地価が下がる」と抗議があり、断念した。「震災後、知らない人でも声をかけ、助け合ってきたのに…」。石倉さんはくやしかった。再度土地を探し、98年に今の場所に落ち着いた。偏見をなくそうと、近くの小学校に見学に来てくれるよう交渉した。店を訪れた児童が、今職員として働いている。その一人は、障害者は関わり方を間違えたらこわい、と思っていた。でも一緒に作業をするうち、自分も含め皆それぞれ得手不得手がある、と気付いた。「障害の有無を一切意識しなくなりました」

 交流は企業にも広がる。社員の意識が変わり、社内に障害者用トイレや手すりが設けられ、障害者の雇用も増えた。「障害者と実際に関わった人は、必ず変わっていく」と石倉さんは信じる。「重い障害がある人も何かメッセージがあって生まれてきている。それを感じ取り、広げていく若い世代に、明日を託したい」

5.命の重さ 差をつけないで

 障害者総合相談支援センターにしのみやのセンター長、玉木幸則さん(48)は、脳性まひの当事者で、阪神・淡路大震災で生き埋めになった経験を持つ。真っ暗で、身動きが取れない。「足の不自由な兄ちゃんがおる。助けたって」と大家の声。近所の男性が「待っとけな、掘ったるからな」。2時間後に救出された。担ぎ込まれた病院では、痛みを訴えても、レントゲンが壊れていて、骨折の有無さえわからない。座薬を渡され、帰された。避難所の中学校には階段があり、一人では入れなかった。夜勤で留守だった妻が駆け付け、支えられて再び向った時には日が暮れかけていた。避難所は人でいっぱい、トイレに行きにくく、水を飲むのも我慢した。おにぎりの分配は、子ども優先、のち早い者勝ち。自分たちには無理、とあきらめた。避難所を出て、障害者支援団体の代表者宅で1ヵ月半を過ごした。

 抽選であたり、公園内に建った仮設住宅に入居。数か月後にようやく手すりと段差解消のためのブロックが設置された。97年、市内の復興支援住宅に移った。

 その後、障害者代表として災害シンポジウムに出席してきた。ある大学教授は災害時の救出の順序について「社会の活力を失わず復興につなげるには、まず20~30代の働き盛り、次が子ども。障害者と高齢者は自分で身を守る努力を」と自説を述べた。玉木さんは驚き、恐れた。「社会にとって有用かどうかで、命の重さに差をつけることを当たり前にしちゃだめだ」。出演するNHK・Eテレ「バリバラ」で、相模原事件の容疑者に共感するという男女2人にインタビューした。話し込むうち、能力主義の社会で彼ら自身が「いつ不要と言われるか」とおびえていることに気付いた。玉木さんは「どんな命も等しく尊い。万人の役に立つ必要はない。生き続けることが大切なんやで」と諭した。災害時の支え合いも、まずはそこからだ。