記者の目 相模原殺傷事件 真の被害者は誰なのか

2016/10/21

毎日新聞 2016年10月12日

 相模原市の知的障害者施設「やまゆり園」で重度の障害者19人が殺害され、27人が負傷した事件から2カ月あまりが過ぎた。神奈川県は保護者と施設の要望を受けて施設の建て替えをするという。県警は「遺族のプライバシーの保護等の必要性が高い」と被害者を匿名で発表した。マスコミの報道も差別や偏見に苦しむ保護者に同情的なものが多い。

 植松聖容疑者は事件の5カ月前までこの施設で働いていた元職員で、勤務中には障害者に対する虐待行為や暴言もあった。なぜこんな人物を雇ったのか、どうして指導や改善ができなかったのか、なぜ犯行予告をされながら守れなかったのか……。被害者の家族がそう思ったとしても不思議ではない。もしも保育所で同じ事件が起きたら、施設は管理責任を追及されるはずだ。なぜ知的障害者施設ではそうならないのか。

 それは、親たちが望んで、あるいはやむにやまれずにわが子を「やまゆり園」に預けているからだろう。私自身も重度の自閉症の子の親である。あわれみや、やっかいなものを見るような視線を容赦なく浴びてきた。ストレスで心身を病んで仕事を失い、家族が崩壊するのを嫌というほど見てきた。そんな親たちを救ってくれたのが入所施設だった。しかし、入所施設では自由やプライバシーが制限された集団生活を強いられる。「どうしてこんな山奥の施設に閉じ込められなければいけないのですか」「僕はお父さんにだまされて連れてこられた」。1997年に入所施設で虐待事件が発覚したとき、被害にあった障害者たちからそう言われた。

 「やまゆり園」の障害者はそんなことは言わないだろう。それは「やまゆり園」が良い施設だからか、障害が重くて話すことができないからなのか。楽しそうな顔をしているように見えても、それは他の選択肢を知らないからではないのか。ハプニングに富んだ自由な地域生活を体験をした上でも彼らは入所施設を選ぶだろうか。親も同じだと思う。わが子のためにといろんなことをやるが、親が自分の安心感を手に入れたくてやっていることが多い。自分を振り返っていつもそう思う。孤独と疎外感に苦しんだ経験をすると、わが子を預かってくれる相手が神様みたいに見える瞬間がある。認めたくはないが、親の安心と子の幸せは時に背中合わせになることがある。

 「保護者の疲れ切った表情」を見て容疑者は「障害者は不幸を作ることしかできない」と考え「安楽死させる」という考えに至る。あきれた倒錯ぶりだが、保護者への同情が着想の根幹の一つには違いない。県警が被害者を匿名発表した理由も保護者への配慮である。マスコミの報道も保護者への共感である。しかし、被害にあったのは保護者ではない。障害のある子の存在を社会的に覆い隠すことが、本質的な保護者の救済になるとも思えない。保護者に同情するのであれば、そのベクトルは差別や偏見をなくし、保護者の負担を軽減し、障害のある子に幸せな地域生活を実現していくことへ向けなければならない。

 神奈川県は施設建て替えを決める前に、障害者本人の意向を確かめるべきではないか。言葉を解せなくても、時間をかけてさまざまな場面を経験し、気持ちを共有していくと、言葉以外の表現手段で思いが伝わってきたりするものだ。容易ではないが、障害者本人の意思決定支援にこそ福祉職の専門性を発揮しなくてどうするのだと思う。

 横浜市には医療ケアの必要な最重度の障害者が家庭的なグループホームで暮らしている社会福祉法人「訪問の家」がある。どんな重い障害者も住み慣れた地域で暮らせることを実証した先駆的な取り組みから学んではどうだろう。

 障害者福祉の現場は着実に変わっているのに、<障害者=不幸>というステレオタイプの中に彼らを封じ込めようとしているように思えてならない。

 真の被害者が何も言わないから、許されているだけだ。