今こそ 糸賀一雄  「障害児は自ら輝く」 哀れみ否定

2016/09/19

 

朝日新聞 2016年9月19日

 今は無批判に「障害者はかわいそう」という人は多くないだろう。「障害者=かわいそう」との決めつけが差別とみなされやすいからだ。しかし、障害者に対する同情や哀れみを隠そうとはしない時代があった。知的障害児は「知恵遅れ」「低能児」とあたりまえに呼ばれていた。

 そんな見方をひっくり返そうとしたのが糸賀一雄だった。「『この子らに世の光を』当ててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である」

 有名なこの言葉は、「糸賀らが創設した知的障害児のための施設「近江学園」での実践の中で芽生えた理想だった」と糸賀に関する著書のある医師・高谷清さん(78)は話す。糸賀は、敗戦直後の路頭にさまよう戦災孤児(知的障害がある子もいた)を保護し教育するために、1946年11月、池田太郎、田村一二とともに大津市に近江学園を創設した。糸賀は知的障害児の教育は「教科書があればできるというものではなくて、生活の一切が学習であると」と言った。晩年に仕事を共にした社会福祉法人理事の斉藤明さん(76)は「トップダウンではなく、徹底して現場から物事を考える、積み上げの人だった」と話す。近江学園の、障害児と健常児を同じ空間で生活させる取り組みは、のちに北欧から始まる「ノーマライゼーション」を先取りしていた。陶芸などの創作活動は「アール・ブリュット」の先駆けだった。

 国も動かした。知的障害児が成人すると法律上は施設にとどまれない、という問題を国に訴えた結果、60年に精神薄弱者福祉法(現在の知的障害者福祉法)ができ、成人施設がつくられるようになった。しかし、「いくら教育しても、普通にさえもならん人間のために使う金はない」と言われたこともあり、世間の認識を変えるのは容易ではなかった。

 60年に学園内に設置した母子像を糸賀は「世の光」と名付けた。由来は聖書の一節。著書『この子らを世の光に』が65年に出版されると、この言葉は一躍有名になった。

 7月に相模原市の障害者施設で起こった事件の後、「この子らを世の光に」のフレーズがネット上で拡散された。加害者の「障害者なんかいなくなればいい」という極端な発想に対抗するよすがとして、この言葉にすがった。糸賀が54歳で早世してから半世紀近くが経つが、この言葉は社会の中で生き続けている。だがそれは、糸賀が理想とした社会がいまだ実現されていないことの裏返しでもあるのだろう。