相模原事件 差別の芽を見つめて

2016/09/12

朝日新聞 2016年8月24日

社説

 事件から1カ月がたった。衝撃は今も人々の心を波立たせている。容疑者の言葉からは、底知れない闇がうかがえる。警察の調べに、「不幸を減らすため。同じように考える人もいるはずだ」と供述しているという。

 この事件は重い問いを投げかけた。容疑者と同じ考えの者などいない、障害の有無にかかわらず誰もが堂々と生きられる社会だ──そう胸を張って断言できるだろうか。

 事件後の障害者や家族から様々な発言は、当事者でなければ見えない冷酷さが社会の中に常在する現実を映していた。障害のある息子を持つ女性は「障害者に対する一般の感覚を最悪の形で集約したのが容疑者だ」と語った。長男に重い障害のある野田聖子・衆院議員は、ネット上で「医療に金ばかりかかる息子は見殺しにするのが国益だ」と書かれたことがある。茨城県の教育委員は特別支援学校の視察後、「妊娠初期に(障害の有無が)分かるようにできないのか。大変な予算だろう」と発言、非難を受けて辞職した。

 命の尊さを、社会にとって有意義かどうか、経済的にどうか、といった基準でみる意識が随所にあることは否めない。日本でも戦後「優生保護法」がつくられ、20年前まで続いた。優生思想は公の記述から消されても、人々の意識からはぬぐえていないのではないか。

 事件を、常軌を逸した人間による特異な事件と片付けては、事の本質を見失う。問われているのは、社会の中に厳然とある差別意識そのものだからだ。人間は、誰であれ同じではない。一人ひとり違うことが自然なのだ。どんな違いも認め合い、尊重し合える共生社会を築くには、不断の意識改革をするほかない。悲惨な事件を二度と起こさぬためにも、身近な差別の芽を見つめることから始めたい。