障害があったとしても

2016/09/11

朝日新聞 2016年8月26日

耕論

障害者でよかった 今思う   奈良崎真弓さん(本人会サンフラワー会代表)

 相模原事件はテレビのニュースで知った。「障害者なんていなくなればいい」と容疑者が話していると知り、心が壊れた。小5の時のことを思い出した。授業についていけなくなった私に、友だちは「死ね」「障害者はいらない」と言った。とてもショックだった。20数年忘れていた言葉が心にグサッときて、2日間嘔吐と寒気に襲われた。

 週4日働いている花屋に行く途中、誰かから同じことを言われるのではと、怖い。今も夜中に目が覚める。事件の現場にいたら「助けて」と言えただろうか。

 容疑者が障害者の命を否定したことは許せない。事件を予告した時、なぜ周りの人が注意しなかったのだろう。怒りというより悲しい。

 障害者がいなくなればいいと思うことは、たぶんみんなにあると思う。でもそうしたらどんな社会になるのだろう?年をとると体が動かないことがある、事故で不自由になるかもしれない。その時、「あなたはいらない」と言われたらどう思いますか?ぴんぴん元気な人ばかりだったらロボットの世界のようだと思いませんか?

 月に一度、知的障害者が集う会を開いている。悩みを話し合ってアドバイスしたり、勉強したり、励まし合ったりしている。障害のない人たちが私たちと出会う機会が増えれば、お互いを大事にできると思う。一緒に笑ったり感動したり、時には泣いたり怒ったり、それだけで生きている価値があるのではないか。あるがままの命の重さを感じられると思う。

 専門用語や長い文章はわかりづらいし、難しい漢字は書けない。障害がない自分になりたいと思ったことは何度もある。でも、親身に支えてくれる人や、感動させてくれる障害のある人など、様々な人と出会い、人は一人ひとり違っていいと実感できた。だから今、こう思う、障害者で良かった、と。

地域での生活 偏見なくす  浅野史郎さん(神奈川大学特別招聘教授)

 1970年に厚生省(現厚生労働省)に入省、初任者研修で重症心身障害児施設を見学した。生まれて初めて大勢の重心児を見てショックを受けた。「この子たちはこうして生きていく意味があるのだろうか」これが率直な気持ちだった。「いなくなればいい」とまで考えなくても、「かわいそう」と思う人は少なくないと思う。「かわいそう」と思うのは、ひとえに私たちが「無知・無理解」だからだ。障害者を知ることで、社会から偏見はなくなっていくと思う。

 私の考えが変わったのは、福祉課長として北海道に赴任、施設を回ってからだ。障害者の声なき声に耳を傾けているうちに、彼らは施設での生活を望んでいるだろうかと疑問を持つようになった。ふつうの生活は地域の中にある。それで厚生省の障害福祉課長の時に始めたのが、少人数で一緒に暮らす「グループホーム(GH)制度」だ。今では7千カ所くらいになり、着実に地域移行は進んでいる。在宅のサービスも充実してきた。2006年に施行された障害者自立支援法では地域生活支援が明確にうたわれた。

 その一方、事件が起きた「津久井やまゆり園」のように、百数十人が一緒に暮らしている施設がいまだにある。10年後も今のままでいいのか、真剣に考えなければならない。今回の事件を受けて、警備強化を進める動きがあるが、これは全く反対の方向だと思う。施設を一種の「要塞」にしてしまえば、「特異な場所に住む特異な人」という認識を再生産しかねない。集団的で、ともすれば閉鎖的になりがちな施設の住まい方を変えるため、今後も地域移行を進めていく必要がある。

「命よりお金」私たちにも  雨宮処凛さん(作家・活動家)

 植松容疑者の行為は、期待通りの経済的利益を生まない者は生きる価値がないという、この国の津々浦々にうっすらとはびこる価値観が露骨に表れた最悪の結末だ。

 介護・医療などの社会保障費は削減され、長寿をことほぐべき高齢者がお荷物のように扱われる。労働者は過労死寸前まで働かされ、企業の都合で使い捨て。経済至上主義の中で、障害者に限らず人の命は値踏みされているのだ。こうした価値観は1990年代以降、国際競争が進むにつれて顕著になった。99年に障害者施設を訪ねた石原新太郎都知事は「ああいう人ってのは人格あるのかね」と述べた。麻生太郎財務相は今年6月、高齢者の老後に言及し「いつまで生きているつもりだよ」と発言したが、この社会は本気で怒らなかった。「かけがえのない命」と言われる一方、経済が人の命より優先される「命のダブルスタンダード」がまかり通ってきた。

 人の生存は本来、無条件に肯定されるのが大原則。他者をあるがままに承認する価値観は生まれながら持っているのに、成長する過程で奪われていく。いま大切なのは、私たち一人ひとりが意図的に経済的な価値とは異なる視点に立ち返ることだ。

 自分の中にも弱い立場の人に対する差別の芽があると自覚し、極端な考えにつながらないよう自己チェックする。少し弱っていたり、生きづらさを感じている誰かへの優しいまなざしを忘れない。普段から命を大切にする実践を積み重ねることでしか、利益を創出するものだけに価値があるという暴力的価値観にあらがえないと思う。かつては私も年収で人を見るような人間だった。反貧困の運動を通して、障害のある人が「生きさせろ」と叫んでいるのを見て、働けるかどうかと個人の存在価値は関係ないのだと、人間観が変わった。ある集会で出会った難病女性は、車いすで眠っているように見えたが、わずかな筋肉の動きで介助者に「まだ死んでない」と伝えた。会場は笑いに包まれた。

 荘厳な儀式のような豊かなコミュニケーションの作法。ここに生きていること自体の尊さ。こうした世界をご存知ですか?